キャバレー
フランス発祥のキャバレーは、ダンスやバンドなどのパフォーマンスをする舞台があるレストラン、ナイトクラブのことを言います。
日本では独自の発展をし、これにホステスによる接待サービスが付け加わったナイトクラブのことをいいます。
現代風にいえば、キャバクラにとても広いパフォーマンスホールがあるお店です。
近年では水商売といえば、クラブ、キャバクラ、ラウンジ、スナック、ガールズバーと色々ありますがキャバレーもその一つなのです。
水商売の歴史は非常に長く100年以上になります。
そして現存する最古の水商売のカテゴリーがキャバレーになります。
昭和23年に風営法が施行されましたが、規制対象としてキャバレー、待合、料理店、カフェーとあるように、この頃にはキャバレー以外の呼称はまだなかったことがわかります。
また、今でいうところの銀座のクラブやラウンジはこの頃はカフェーと呼ばれていました。
カフェーってなんだよ、カフェだろと突っ込まれそうですが昭和初期までずっとカフェーと呼ばれていました。
このカフェーの歴史は複雑で、クラブやラウンジだけでなくBarや喫茶店のカフェもカフェーでした。
そして、紛らわしいのが日本においてのキャバレーもカフェーの1つであったということです。
では、いつどのようにカフェーがキャバレーになったのか、カフェーが喫茶店やBarになったのか疑問に思い調べると、Wikipediaやネット情報、書籍でも曖昧な記載が多いことに気づきました。 そして、このカフェーを調べると、実に沢山の通説が存在していることです。
全ての通説は間違いではないですが本当に所々曖昧です。
私もそうでしたが、それぞれのジャンルで歴史を語る上で自分の都合の良い解釈がされていることが一因しているように感じます。
この様々なジャンルの歴史の通説を調べることで曖昧な部分が補完され、私なりの一つの結論に至ることができました。
最近は珈琲ブームで、カフェと呼ばれる喫茶店が沢山あります。夜の繁華街にはワインバーやオーセンティックバー、キャバクラ、ガールズバーなど沢山の飲食店があります。
これらは元々全て同じ起源です。
純粋に本格的な珈琲を出しているカフェの店主、拘り抜いた沢山の種類の洋酒やカクテルを提供している店主からすれば、水商売と一緒にしてくれるなと思うかもしれない。
しかし、これから書くことが日本における洋飲食の文化と歴史である。
ここで誤解がないようにいうと、元来から日本にあった茶屋や料亭等の飲食店はカフェーとは関係なく、明治に入り西洋化によりもたらされた洋食、洋酒、珈琲を提供する飲食店の話しである。
キャバレーの源流であるカフェーは明治に遡り、カフェーの源流となった洋酒と洋食の歴史は江戸時代にまで遡ります。
今回は日本におけるキャバレー中心の話しです。
カフェーの源流については簡単な歴史背景を述べるにとどまりますので、多少の間違いはあるかもしれませんが、カフェーの歴史には影響しません。
洋酒は江戸時代後期(1846年頃)に輸入されはじめ、外国人接待向けに1860年に横浜ホテルにBARができました。これが国内初のBARとされています。しかし、外国人向けであったため、洋酒は江戸時代には大衆化しませんでした。
また、コーヒーは江戸時代初期(1640年頃)に長崎県の出島に初輸入したとされています。
洋食は江戸時代後期(1853)の黒船来航で初上陸したが、文化を日本に広めるきっかけとなったのは明治5年(1872)に日本で誕生した、西洋料理店「築地精養軒」である。
この築地精養軒により洋食文化が本格的に始まることになりました。
一方で、大衆(日本人)向けに始めて洋酒を提供する飲食店は、明治32年(1899)にビヤホールと名乗るビール一杯売り専門店とされる。
明治後期には広く洋酒洋食が認知されるようになりました。
以後、西洋化が広がり、同様の店舗が増えました。
いつの時代も、分化、統合を繰り返し文化は形成されていきます。
洋食、洋酒、珈琲のそれぞれの文化は統合によりカフェーという新しいジャンルを形成していくことになります。
明治末期頃からビール、洋酒、珈琲が飲め、洋食が食べれる店をカフェーと呼ぶようになりました。
明治44年(1911年4月)に日本初のカフェーとされるプランタンが開業。同年8月にライオン、12月にパウリスタが続けて開業し、カフェーが全国普及していくことになります。
カフェーの起源である3店舗はそれぞれ特色があり、ライオンは静養軒が経営していたこともあり洋食が中心であり、パウリスタは珈琲が中心、プランタンは珈琲と洋酒とソーセージやマカロニグラタン等の軽食を提供していました。
話しがややこしくなったのは、数ヶ月しか開業が変わらない、洋酒と洋食、珈琲のみ、珈琲と洋酒と洋食のように、店舗により提供するものが異なるのに全てカフェーと名乗ったことである。
プランタンが起源とする説が有力(開業が数カ月早いから)であるが、前述した通り統合によりカフェーは洋食、洋酒、珈琲を扱い提供する飲食店であることから、カフェー文化としてはこの3店舗全てが起源である。
明治44年に大衆向けカフェーが誕生したということは間違いない。
さて次に問題となるのが、給仕が若干異なっていることである。
西洋(フランス・パリとされる)をモデルに増えたカフェーですが、西洋と大きく違ったのは、パリの給仕は男性でギャルソン、日本の給仕は大半が女性で女給と呼ばれていました。
話しはそれますが、現在でも日本の古いキャバレーやクラブにおいてウェイターをギャルソンと呼ぶ語源はここにあります。
日本独自のこの女給が後のホステスとなります。
3店舗の開業当初の給仕はパウリスタは15歳未満の男児のみ、ライオンは30名からなる女給のみ、プランタンも女給の募集をしていたことから男女折衷か女給のみであったとされています。
ここで、パウリスタ派からすれば給仕募集が15歳未満の男児であることから水商売とは関係ないというかもしれないが不毛である。
大正12年(1923)の関東大震災によりパウリスタは閉店しており、それまで一切女給がいなかったとする資料はない。
それに、珈琲を中心に提供し女給を使ったカフェーも多数あった。
カフェー文化と女給は密接不可分である。
カフェーは単なる呼称をこえた文化であり、女給により発展したのである。
大正に入り、殆どのカフェーで女給が使われるようになり、綺麗な女給がいるカフェーが流行っていった。
そして、カフェーは様々な形で統合、発展、そして分化していくことになります。
大正2年(1913)には有楽館ダンスホール、大正9年(1920)年頃には帝国ホテルで西洋式のバンド演奏が開催されるなど西洋音楽が流行し始めました。
それまでのカフェーに西洋音楽が統合され始めたのも大正初期である。
キャバレー文化の誕生である。
しかし、この頃はまだカフェーの分類の一つに過ぎなかった。
混在した大正初期のカフェーは大きく4つに分類できる。
①音楽を中心とするカフェー(キャバレー)
②洋酒を中心とするカフェー(Bar)
③洋食を中心とするカフェー(レストラン)
④珈琲を中心とするカフェー(喫茶店)
更に、女給がいたかいないかで合計8パターンのカフェーがあったことになる。
これがカフェーが複雑に語られる理由である。
大正12年(1923)の関東大震災前後から、女給が客の隣に座りサービスを提供(接待)するカフェーが出現し大人気となった。
これは沢山のカフェーができたことにより競争が激化しサービスが過剰になったのである。
女給は数少ない女性の職業であり社会進出の場所でした。
また、女給には給料はなく、客からのチップが収入源であった。
人気店では沢山のチップが見込めるため女給が集まった。
しかし、人気店では女給は店側に金を払い給仕をさせてもらう仕組みであった。
赤字にならないために女給はより濃厚なサービスでチップを求めるようになる。
驚くことに、そんな劣悪な環境下でも、女給は現代でいうところのCAやアナウンサーやアイドルのような憧れの花形職業であった。
大正末期~昭和初期になってもカフェーの人気は衰えることがなく、店舗急増、更なる競争激化を招いた。
昭和に入りカフェーでのエロサービスが過激になり問題となったため、昭和4年(1923)のカフェバー等取締要綱、昭和8年(1933)の特殊飲食店取締規則により官憲による取締り対象となった。
これにより、エロサービスを伴うカフェーを特殊喫茶、伴わないカフェーを純喫茶と呼ぶようになった。
このカフェーのエロ・サービスについてどの程度であったのか記載があるものは少ないが、エロ演芸取締規則(昭和5年)の通達から紐解ける。
現代風に要約すると
①見せパンは股下6センチ未満はダメ
②背中は半分以上露出するな
③胸部はおっぱいより下は見せたらダメ(谷間も)
④へそ出しはダメ
⑤ボディーラインが出る服はダメ ⑥スリットのスカートはダメ ⑦照明で透ける服(シースルー)はダメ
⑧ダンスで腰ふるな ⑨足(股)を広げるしぐさをするな ⑩太もも見せるな
当時はこれらがエロサービスとされていました。 正直、現代では見慣れた光景でこれがエロ?である。
しかし実は、上記の昭和初期のエロカフェーの増加により、鎌倉時代からあるとされる公娼制度(政府による売春管理)により保護されていた、料亭や遊郭は大打撃を受けたことでカフェーに新たな分類を創生しました。
それは、料亭や遊郭がよりカジュアルなカフェーに参入し、遊女達(売春婦)が1階で女給を務め、2階で売春をするカフェーが誕生したのもこの頃である。
この頃には、純粋に珈琲や洋酒を楽しむカフェー、女給が客の隣に座りサービスを提供するカフェー、売春をするカフェーが存在することになり、カフェー文化はより一層複雑になった。
大正初期の4分類のカフェーに、女給の有無、売春の有無、これで合わせて12分類になったことになる。
昭和7年、大阪のカフェー赤玉が改名し、はじめてキャバレーを名乗ったとされる。
日本で初のキャバレーはキャバレー赤玉であるが、これは大阪のキャバレー赤玉であり、残念ながら益田市のキャバレー赤玉ではない。
そういえば親族に名前の由来を聞いたことがある。
当時、関西では赤玉ポートワインが大ブームであった。
その影響もあり、験担ぎで名前に赤玉と入れる会社や店舗が多かったそうである。
わが社もそうであり、決して男性の最後とされる赤玉が由来ではない。
大阪のカフェー赤玉の改名から、続々と大箱のカフェーはキャバレーと名乗るようになりました。
戦時中にキャバレーが営業していたかは不明であるが、戦後13日後にRAA(特殊慰安施設協会)が発足。
これは進駐軍兵士(アメリカ兵)から日本人女子を性暴力から守るたの防波堤としてできました。
RAAには食堂部、キャバレー部、慰安部、遊戯部、芸能部、特殊施設部、物産部がありました。
RAA管轄の1つとして発足したキャバレー部が戦後のキャバレーブームを巻き起こしたとされます。
キャバレー部の初号店は1945年11月にオープンした「オアシス・オブ・ギンザ」である。
ここでは女給サービスではなく進駐軍が慰安目的で日本人ダンサーと自由恋愛ができるダンスクラブであった。
この時点で、日本におけるキャバレーは音楽と踊り子が慰安(接待)をする形が定着したと考えられる。
RAAは発足後1年で性病蔓延に歯止めが効かない状況になり解体されました。
その後、キャバレーはダンスやバンドの音楽を楽しめ、女性ダンサーや女給とも楽しめる場所として確立してきたのである。
しかし、戦後のカフェー、キャバレーの影は更に深まった。
RAAが解体されたことにより集められた慰安女性、つまりは売春婦の存在である。
性の防波堤として進駐軍の相手をしていた慰安婦は酷い差別をされ溢れかえりました。 そして、女給の可愛いエロサービスのカフェーが多かった特殊喫茶でしたが、ここに慰安婦、遊女がサービスをおこなうカフェーが急増してきたのである。
こうしてカフェーは性風俗サービスをおこなう店舗も多く含まれていくようになり、俗にいう赤線区域(特殊飲食店街)として管理されることになったのである。
近年では、戦後の売春カフェーにスポットがあたり、あたかもカフェーの中心的存在として語られるが、ここまで述べてきたようにこれは間違いである。
カフェー全体から見ればこれらはごく一部の存在であった。
RAA解体後の日本のキャバレーは、女給の流行とダンスの流行が組み合わさり、パフォーマンスだけでなく女給のサービスも付け加わったものとなりました。
一方で、キャバレーと名乗り売春をメインにした店舗も混在していた。
そして、カフェー文化は昭和23年(1945)の風営法により終焉を迎えたとみられる。
風営法より、売春を主サービスにするカフェー、キャバレーはなくなり、ピンクサロンやピンクキャバレー等別の呼称で営業することになる。
風営法は複雑化したそれまでのカフェー文化を実質的に解体した。
風営法2条1項には名残として、カフェーと記載があるが、調べる限りカフェーと名乗り接待(大正エロサービス)を行う店舗は現存していないと思われる。
風営法施行後に、大正エロカフェーは接待飲食業として
①文化人が通う会員制であるクラブ
②大衆向けのラウンジ
③小規模なスタンド、スナック
として誕生したとみられる。
接待がない、酒類を扱うBARや珈琲を提供する喫茶店であっても、客同士でエロがおきそうな低照度や狭い空間の個室がある店は特殊喫茶としてカフェーの名残で風営法の適用化におかれる。
昭和中期には空前のキャバレーブームとなった。
しかしながら、パフォーマンスはディスコ、ダンスクラブに台頭され、女給のサービスはキャバクラ、ラウンジ、スナックに台頭されていきます。
日本独自の統合を繰り返したキャバレー文化は衰退していき、サービスの分化により全国的に大型キャバレーは閉店していくことになります。
全国に残された大型キャバレーはもう数店舗しかありません。
昭和の雰囲気を大切にし色濃く残した、大型キャバレーは数少なくなってきました。
しかしながら、益田にはその数少ないキャバレーがまだまだ元気に営業しております。
赤玉の創業は昭和13年す。
親族や昔を知るお客様の話しを聞く限り、赤玉では旅館(遊郭)を営んでいたことから、遊女が女給として働くキャバレーとして誕生したようです。
非常に長文になりましたがキャバレーの歴史、カフェーの歴史は奥が深いと痛感しました。
所々、間違えがあるかもしれませんが大まかなカフェー文化、キャバレー文化を知る一助になればと思います。
